2009年11月 9日 (月)

日韓の歴史は愛憎の繰り返し…?

 三国史記に次の記事がある。

 新羅の王子(太子)・宇老は、234年に日本の使者葛那古を接待した時に戯れて、汝の王を塩奴に任じると言った。倭王は怒り将軍の干道朱を遣わして、新羅を攻めさせ宇老を火あぶりに処した。

 その後(およそ40年ほど後)新羅を訪れた倭国大臣を、宇老の妻は饗して火あぶりにして恨みを報じた。倭は怒って金城を攻めたが、勝利を収めずに帰った。

日本書紀では神功皇后の条に次のように記している。

 一に云う。新羅の王を虜にして、海辺に連れて行き膝の骨を抜いて石の上に腹ばいにさせた。暫くして斬り砂に埋めた。

一人代官を決めて残し帰国した。後に新羅王の妻は夫の遺体を埋めた所が分らなかったので、代官を誘惑してその場所を知ろうとした。

 代官に、汝王の遺体を埋めた所を教えてくれれば、厚くお礼をする、そして私は汝の妻となると言った。

 代官は真に受けて密かに遺体を埋めた場所を教えた。王の妻は部下と図って代官を殺した。更に王の遺体を掘り出して別の場所に葬った。その時に王の墓の底の土に代官の遺体を埋めて、その上に王の棺を埋めた。

 そして尊卑の序列とはこのようなものだと言った。これを聞いて怒った天皇は大軍を編成し、軍船は海に溢れるほどであった。

 新羅の人々は恐れてなす術を知らなかった。そこで合議して王の妻を殺して罪を償った。

 ここでは慎重に固有名詞を使わずに説話の紹介にとどめているが、墓の下に敵の遺体を埋めるという凄まじい話となっている。この両書の記事は同じ話が新羅、日本双方に伝わっていたものとみられている。

 殺したら殺されるという主筋は同じである。時代は移り李朝の王妃・閔妃は暗殺された。

この事件には旧日本軍の影がちらついている。さらに時代は変わり伊藤博文はハルピンの駅頭で安重根の凶弾に倒れた。歴史は繰り返すという言葉が思い出される。

 日本書紀の記事は名前さえ挙げていないものの、非常にリアルで具体的である。その直前の文章に、宇流助富利智干の名前が出ている事もあり、宇老の事を示唆しているともとれる。

 墓の下に敵の遺体を埋める話は滅多に創作できるようなものではない。いつか何処かで実際にあった事件と思われる。さていつの時代、誰の事であったのだろう?

 日本はこれまでに何度も戦乱を繰り返してきてはいるが、日本の風土・文化とは違和感があるのを否めないが

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2009年10月30日 (金)

伊勢佐木町に生きている青江三奈さん。

 高校生の時から銀座のクラブで唄っていた三奈さん。筋金入りのクラブ歌手...。

 セクシーな溜息と甘いスキャットを織り込んだ伊勢佐木町ブルースが、大ヒットして一世を風靡したものデス。

 今は歩行者天国となっている「ザキ」5丁目に、青江三奈さんの歌碑が静かな佇まいを見せている。

 歌碑の台座の所のドッカを押すと、そのメロディーが流れるようになっている...

らしい。

 昔日の良き時代?にはヨコハマのザキだった伊勢佐木町...

今は福州市イセザキになったような...?

      Photo

      こっちはオルゴール..?

      Photo_2

 

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2009年10月24日 (土)

江戸氏と太田道灌・上杉氏。

 江戸は家康が入府して湿地帯を開発したとされている。だがその前から江戸は物流の集積港として発達していた。

 その江戸には「江戸氏」が君臨していたことは、あまり知られていない。江戸重長は秩父氏の出であり、平家に属していた。

 江戸重長は三浦氏の衣笠城を攻めて陥落させた後に頼朝に随った。江戸重長の子孫は長く繁栄した。世田谷区の寺には重長の銅像が建っている。

 約百年余の後に江戸は鎌倉円覚寺の領地となった。鎌倉上杉四家の扇谷上杉家の家宰だった、太田道灌が江戸城を築城したのは更に百余年の後である。

 この時に重長の子孫は戦上手の道灌に駆逐された。道灌は上杉同士の争いやその他の合戦を、三十回ほど戦っているが殆どの戦に勝利を収めている。

 その道灌は上杉の用人であった為に、自前の家来は持てずに私費で雇った足軽が軍隊の主力を形成していた。

 道灌は台頭し過ぎたためか、主の上杉定正によって暗殺される憂き目に遭ってしまう。斬ったのは蘇我兵庫と云われる。

 扇谷上杉家は没落し、約百年後さしもの道灌・江戸城は北条早雲に占領された。関東管領上杉憲政もまた鎌倉を追われ、上野平井へと退いた。

 上杉といえば謙信と言われるが、鎌倉上杉からみると謙信はあくまでも、何処まで行っても長尾景虎である。

 

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2009年10月20日 (火)

引越しする時は家ごと持って行く..?

引越しの時は家ごと持って行く国が幾つかある。引越し先が見つかったらトレーラーの上に、家を乗っけて運んで行きその土地に家をドスンと下ろせばほぼ引越しは完了。

極端な場合は家を船に載せて湖を移動していくこともある。

大型キャンピングカーに住み、好きな州に好きな期間だけ住んで、厭きたらまた違うところへ移動していく人もいる。

日本においても家ごと引っ越した例がある。つい先頃の近辺での話家の下にコロを敷いて近くの土地に引っ越した。

建物がまだ新しいのでそのような形態をとったようだ。気に入った間取りであったのかもしれない。

住宅を買うと言うと日本人は、ややもすると「一生の買い物」といった観念を持つ。

諸外国ではそうではないらしい。

家族の人数構成の変化や仕事の都合に合わせて家を買い替えてゆく。ニュージーランドでは広い敷地に家の販売場・ショーホームがあり、気に入った家があればそこで家を買って行く。

トレーラーやトラックに家を載せて、自分の土地まで持って行きそこに設置する。簡単で合理的なやり方といえる。

家が建つまで何か月も待つ必要はないというわけだ。欲しくなったら、いつでも買ってすぐにでも住めるというスタイル。

ただ家を買って持って帰るというのは日本の文化にはなじまないとも思える。

ちなみに同国では平均7回の引越しをするという。(o^-^o)

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2009年10月18日 (日)

祝!福山雅治クン 魂ラジ 500回

 マーシャ・福山クンは大忙しの様子...ラジオのイントロも、ギターの生演奏から入りたかったけど....って、スタンバイが間に合わなかったとか。

  ヘッドフォンを付けてBGMが入ってくると、ギターを弾き始めて...

やっぱ アコギ の生演奏はナンカええで。

 最初はビートルズの原盤の歌が流れてきたかと思ったけど...荘ちゃんの歌だってか。

こりゃびっくり、荘ちゃん・荘口クン歌うまいんだねえ。英語も出来るし聞けば子供も居るってね。

 これまでモテナイ男の代名詞みたいに思ってたけど...失礼ぶっこきました。

長いよね。魂のラジオと福山クン....。何処から見ても男から見てもホントに格好良い男・マーシャ・福山。

 「実に面白い。」ガリレオは終ったけど、来年はまた「竜馬」で大爆発間違いなし。

そのコンサートも凄いらしい。多彩な楽器を並べてギター演奏も腕を上げているとか。

 ルックスが良くてスタイルが良くて声が良くて、演技にカメラ...と欠点もなさそう。

 けど本人は自分の声は好きじゃないとか。「なに、高校の時は茶道部だってか。」

その日の風によって流される「雲」のように生きてきましたか。

 羨ましいような...

あの、夜の雰囲気に似合う「下ネタ」は(鶴光を敬愛して)計算してのモノのようでんな。

それにしても、浮いた話が聞こえて来ないのは...世界の七不思議?eye

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2009年10月17日 (土)

スナックでかますギャグは...

 スナックに行ってママに「あ~ら久しぶり..ネ。」と言われたら、

「な~にまだ足も付いてるでョ。」と言って足踏みをしながら、ピョンピョンと飛び跳ねる。

「あっホントだ。」と返ってきたら....

すかさず「ちんちんも付いてるデ。」と言って、

「そお~。」と言われたら「見てみる?」と返すのがよろしいようで...。

 その後の馬鹿話も盛り上がっていくとか。

 まあ~目撃談でゴザリ...??(*^ω^*)ノ彡

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2009年10月15日 (木)

江戸時代の離婚は少なくなかった。

 江戸時代の離婚届けは「三行半」。妻はこの白紙に三行半で書いた証明書・書状を貰えば再婚も出来た。

 結婚の維持・持続期間は信濃の農村の例で、19年~28年間。

死別などを除き、離縁により結婚が終了したのは、およそ14%という。

 湯舟沢村の伝七家の世帯は20年間、12人~16人の大所帯だった。

 弟の八郎は36歳の時に結婚した。妻は21歳で共に初婚であり、七人の子をもうけ40年余を共に過ごした。

  対照的に同村の伝次郎は結婚運に恵まれなかった。伝次郎は21歳の時に15歳の妻を貰ったが、翌年には離縁し妻はこの翌年再婚した。

 二年後に19歳の妻を得たが間もなく離縁した。どちらの場合も子供は生まれていない。

 伝次郎は7年後に18歳の初婚の妻を得て、男子をもうけたが6年後にはこの結婚も破綻してしまう。 

 子供を残して帰った妻は翌年には再婚している。伝次郎は26歳の妻と4回目の結婚をしたが、この翌年にはまた離婚となり妻は実家へ帰った。

 41歳となった伝次郎は5回目の結婚で26歳の妻を得た。この結婚は6年間続き男子をもうけたがまた離婚で終わりを告げた。

 6回目の結婚は49歳の時で、相手は34歳、女子をもうけて15年後に伝次郎はこの世を去った。 (日本二千年の人口史)

 庶民・民衆の歴史が日本の歴史を形作ってゆく...。bleah

        Kibanakosumos

 

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2009年10月13日 (火)

鯛の兜焼きは白身で...

 うんまい と、ちょいと小耳に挟んだので行ってみたとサ。

 まず冷酒を頼んでみたトカ....う~む。?お通しは鮪の刺身....。

 メニューを見ていると、ママが生ガキがあるでなんぞと言うので、それを....。

そして何処でも見かけない「鯛の兜焼き」なる物を頼んでみたのでゴザイ...

意外と速く出てきたソイツは白身で、さっぱり味。

 三枚におろした骨付きの側で、尻尾まであるヤツの上に鯛の頭が乗ってマス。

鮪のそれに比べると食べられる所は少ないよう。

他のメニューは わらさの兜焼きが同じく1,000円

 頭に限ると鯛もわらさも同格のようですナ。pisces

 ふんで板長が、海辺の村に生まれてョ、芋を食って育った...話を聞きのデ...。

 食べたかったお目当てのヤツは高くて....思案の挙句食べなかったとカ。

  1,000円メニュー

 ぶりてり 中落ち 鯛刺身 刺身松 うに丼 いくら丼 などでござりました。

        Photo

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2009年10月11日 (日)

横浜村の戸数は87戸...日本で初めての水道..

かっての横浜は小漁村で殆どが山であったトカ...?明治の頃はナント僅かに87戸です。

今は300万を超えて日本第二の大人口...なのに信じられますか?明治の日本人口は

約3,500万人ですから、今のおよそ3分の1です。

 8,000万人位になれば、渋滞もラッシュもなくなって暮らしやすくなるかも知れません。

 さて、この寒村に近代水道を敷設したのは明治20年。日本で最初の水道です。

水源は津久井町(旧三井村)、今の津久井湖がある所です。ここから横浜の野毛山に向かって、真っ直ぐの道路を造り資材を運んだ。

 当時は車がなかった為に、まず線路を敷いてトロッコを走らせた。この道に沿って導水管が埋設され、その道には今も「水道道」の名前が残っている。

 英国人技師の協力を得て、この2年に及んだ水道工事は完成した。この水道道は武蔵国と相模国の境界付近に位置していた。

 古地図にはまだ都筑郡と橘樹郡の名が残っている。

 いま西谷に広い浄水場があり、敷地の中央には水道記念館がある。

      Photo

 

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2009年10月10日 (土)

和田町の和田村橋の改修は江戸時代...。

 和田町の和田村橋の改修

 八王子街道は古くは八王子往還と呼ばれていた。今ではこの名前は死語同様になり、単に16号と呼ばれている。八王子という言葉は遠隔地というイメージに繋がるせいだろうか。

 

この和田町交差点の近くに和田村橋改修記念の碑がひっそりと立っている。江戸中期にはこの辺りは難路であったという。

和田村の住民と川島村の住民が、協力して道路を改修して橋をかけた。1737年の事である。

この時の資金は、江戸在住の櫻井茂左衛門が提供したと記録されている。当時の篤志家であったようだ。

和田町交差点の跨線橋の下には宮崎橋があり、市の道路局が水位観測所を設置して帷子川の増水を監視している。

記録がないため定かではないが、状況からしてこの宮崎橋が往年の和田村橋と思われる。和田村橋の名はいま和田町駅前の「和田橋」にその名を残している。或いはこちらが古の和田村橋であったか。(o^-^o)

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