日韓の歴史は愛憎の繰り返し…?
三国史記に次の記事がある。
新羅の王子(太子)・宇老は、234年に日本の使者葛那古を接待した時に戯れて、汝の王を塩奴に任じると言った。倭王は怒り将軍の干道朱を遣わして、新羅を攻めさせ宇老を火あぶりに処した。
その後(およそ40年ほど後)新羅を訪れた倭国大臣を、宇老の妻は饗して火あぶりにして恨みを報じた。倭は怒って金城を攻めたが、勝利を収めずに帰った。
日本書紀では神功皇后の条に次のように記している。
一に云う。新羅の王を虜にして、海辺に連れて行き膝の骨を抜いて石の上に腹ばいにさせた。暫くして斬り砂に埋めた。
一人代官を決めて残し帰国した。後に新羅王の妻は夫の遺体を埋めた所が分らなかったので、代官を誘惑してその場所を知ろうとした。
代官に、汝王の遺体を埋めた所を教えてくれれば、厚くお礼をする、そして私は汝の妻となると言った。
代官は真に受けて密かに遺体を埋めた場所を教えた。王の妻は部下と図って代官を殺した。更に王の遺体を掘り出して別の場所に葬った。その時に王の墓の底の土に代官の遺体を埋めて、その上に王の棺を埋めた。
そして尊卑の序列とはこのようなものだと言った。これを聞いて怒った天皇は大軍を編成し、軍船は海に溢れるほどであった。
新羅の人々は恐れてなす術を知らなかった。そこで合議して王の妻を殺して罪を償った。
ここでは慎重に固有名詞を使わずに説話の紹介にとどめているが、墓の下に敵の遺体を埋めるという凄まじい話となっている。この両書の記事は同じ話が新羅、日本双方に伝わっていたものとみられている。
殺したら殺されるという主筋は同じである。時代は移り李朝の王妃・閔妃は暗殺された。
この事件には旧日本軍の影がちらついている。さらに時代は変わり伊藤博文はハルピンの駅頭で安重根の凶弾に倒れた。歴史は繰り返すという言葉が思い出される。
日本書紀の記事は名前さえ挙げていないものの、非常にリアルで具体的である。その直前の文章に、宇流助富利智干の名前が出ている事もあり、宇老の事を示唆しているともとれる。
墓の下に敵の遺体を埋める話は滅多に創作できるようなものではない。いつか何処かで実際にあった事件と思われる。さていつの時代、誰の事であったのだろう?
日本はこれまでに何度も戦乱を繰り返してきてはいるが、日本の風土・文化とは違和感があるのを否めないが…。
| 固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)







最近のコメント