2010年10月17日 (日)

吉野ヶ里遺跡と徐福伝説

徐福村の発見

中国では徐福の生誕地が発見・確認され、謎に包まれていた徐福の研究も活発に行われるようになったという。日本各地には徐福の渡来伝説があり、今も徐福を祭る神社や墓が残っている。

これ等の徐福伝説は、渡来人がもたらしたものと考えられている。オブラートに包んだような、危なげのない解釈として定説化したのだろうか。

徐福が不老不死の霊薬を求めて、童男童女と共に東海に船出した経緯は司馬遷の「史記」に記されている。史記に記載された記事はその幾つかが事実であったと認められ、史書としての史料価値は高まっている。

始皇帝没後65年目に生まれた司馬遷は、徐福が船出した山東半島に始皇帝の調査で三回も訪れている。司馬遷はここで当地の古老から聞き取りをしたと思われ、百年もたっていない頃の事なので色々な事実やエピソードを入手するのも難しくはなかったであろう。

徐福は、山東半島に巡行に来た始皇帝に書を奉って船出の許可を求めた。

1981年に発見された徐福村は奇しくも山東半島の付け根に位置している。徐福村は清朝時代以後は徐阜村と呼ばれていたが、発見以降は徐福村に戻したという。徐福村には水田が多く、その刈入れは今でも弥生時代そのもののように手作業で行われている。

日本の農耕文化には中国江南の影響が濃いが、徐福村は江南の農耕文化の北限とされている。徐福が船出したまま帰ってこなかったことから、徐福の子孫はその姓を名乗り続けることに不安を感じて次々に改姓した。始皇帝の怒りを買うことを恐れて村外に逃亡した人もいた。

いま復権を果たした徐福の子孫たちの系図の多くは、徐福から70代目から72代目に当たっているという。1代を平均30年とすると70代目では2100年、72代目では2160年となる。徐福が船出したとみられる2209年前頃にやや近い数字となる。

呪術師 徐福

徐福村には、徐福の屋敷跡と伝えられている畑地があり、秦・漢時代の瓦や石碑が出土している。出土物の中で注目されるのは、徐福が使っていたという大きな石の薬研である。

近くには免税地とされた薬草畑があった事も文献で確認されている。徐福村には徐福は呪術者で医療の神であったと伝わっている。

更に一際目を引く出土物に鯨の骨の錨がある。これは年代測定によって二千年以上も前の骨とされた。他にも船大工道具や石の錨も出土している。山東半島は海に面していて、古代から航海術が発達していたという。徐福村の近くには貯木場があり、その跡地からは炭化測定で二千年以上も前の木材と判定された。同地には徐福の造船所だったとの伝承がある。

実際に付近には今でも小さな造船所が存在している。徐福村の地理条件や出土物とその年代、伝承などの状況は、徐福のプロフイールに寄り添っていて否定的な要素はないといえる。

史記によると始皇帝は、徐福に三千人の若い男女と五穀の種子と百人の職人をつけて東海へ派遣したとしている。しかし徐福は平原広沢を得て、そこの王となり中国へは帰ってこなかった。この為、徐福は当初から亡命を目的としていたという説が有力性を帯びてきている。

一方では始皇帝が東海の守りとした、古い血統を持つ徐福を追放したなどと反論も出されている。

水田耕作と弥生人の東遷

水田耕作を伴う弥生文化は、徐福が渡来した時代に歩調を合わせるかのように、西日本から東日本へ、そして東北地方にまで急速に広まっていった。一見して単純作業のように見えるが、水田耕作には高度な技術が必要とされる。

福岡市の菜畑遺跡は縄文晩期の遺跡であり、日本最古の水田跡とされている。徐福の渡来するおよそ2~300年前頃のものと推定できるという。この菜畑遺跡の調査から、日本に水田耕作の技術をもたらしたのは徐福ではなかったとみられるが、稲作が日本全国に急速に広がった背景に徐福の集団、或いはその分団の影響を考える説もある。

縄文人は狩猟・採集民族であり、弥生人は耕作・定住民族でありその文化は全く異質のものである。実際に人類学的に骨相を分析してみるとその違いがはっきり分かるという。

北部九州で発見された縄文人と弥生人の骨の比較から、弥生人の方が身長で4~5センチ高く顔は面長という結果が出て、明らかに違う種族とされている。     この弥生人は朝鮮半島方面からの渡来人の可能性が強いとみられている。渡来人の故郷は、中国北部や東部シベリアに求められるという強い示唆を提示する説も出ている。

身体的特徴も西日本から次第に東日本へと規則的に移って来ているという。

人口の面からみると、縄文晩期のころには日本には七万五千人ほどしかいなかった。だが七世紀にはいると人口は一気に五百四十万人に達している。この間に多くの渡来人があったことは疑い得ない。形態学的には九割くらいの渡来人があって、現代の日本人の顔つきになるという。

吉野ヶ里遺跡と徐福伝説

佐賀県にある金立神社には徐福が祀られ、農業の神として今もなお厚い信仰の的となっている。同社には徐福が祀られたのは二千年以上も前と伝わっている。徐福は同地で死亡したが、船団の一部は鹿児島を回って北上して行ったとされている。

三重県熊野市には徐福神社があり、徐福が漂着した所とされ焼き物の神として祀られている。同社には徐福が持って来たという須恵器の鉢が伝わっている。

和歌山県新宮市の阿須賀神社にも徐福の宮が祀られている。ここでは徐福は捕鯨などの漁業を伝えた神とされ、また漢方薬などの医術の神ともされていた。 同社の境内からは徐福伝説を裏付けるように縄文晩期から弥生初期の住居跡が発掘された。

山梨県富士吉田市の太神社には徐福の墓がある。ここでは徐福は織物を伝えた神として祀られている。

この他、日本海側では京都府伊根町、秋田県男鹿市、青森県小泊村に徐福渡来伝説がある。太平洋側では、鹿児島県坊津町・串木野市、宮崎県延岡市、山口県上関町、広島県宮島町、愛知県熱田神宮・小坂井町、静岡県清水市、八丈島などに徐福伝説がある。

徐福渡来伝説が研究され、リアルに物語られている金立神社は吉野ヶ里遺跡の西8キロの所に位置している。吉野ヶ里遺跡を見学した中国の研究者は、中国の江南文化と深いつながりがあると断定している。環濠集落や高床式倉庫、墳丘の上の墓地などは江南地方特有のものであると述べている。

ここにおいて、吉野ヶ里遺跡は徐福の子孫たちが築いたものだった可能性がほのかに見えてきた。

                        (参考:歴史誕生)

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2010年3月20日 (土)

天之日矛と武内宿禰 卑弥呼と田油津姫

 天之日矛と武内宿禰は同一人物?

 天之日矛は武内宿禰と同一人物であり、なお且つ住吉大神であると

する一見珍奇な話がある。(関裕二氏)天之日矛は自身が渡来して来たのではなく、      

渡来人の子孫であったと言う

「宗像(神社)の子は住吉、住吉の子が宇佐。」という、現地に残る

伝承をほぼ肯定して、一般には住吉大神は筒男三神とされているが、神と

なる前の実在の人物が祀られた。それが天之日矛であるという。

 天之日矛は仲哀が死んだ夜に、神功皇后と契りを結び応神の父となった。

神功皇后は、邪馬台国のイメージを彷彿とさせる山門の田油津姫を討滅した。

この田油津姫は卑弥呼であるとしている。

 魏志倭人伝では卑弥呼が死んだ後に男王が立ったが、国中は治まらず卑弥呼

の宗女・トヨが立って治まったとしている。この男王は天之日矛で、神功皇后

がトヨであり、後に九州南部に追放されたという。

 田油津姫には兄が居たことから、弟がいた卑弥呼とはそのプロフイールが

似ており、以前から田油津姫・卑弥呼説があった。山門の女山には広大な霊域

があり、その麓には長大な神籠石がめぐらされている。

 この四角い巨石は三キロにも亘って土塁状を構成しているが、近年の研究では

七世紀の築造と見られるという。おそらくは朝鮮有事に備えたものであろう。

神籠石で囲まれた山頂には古墳群があるが、これらは六世紀ころの物と考えら

れている。

とすると山門の遺跡群は邪馬台国には結びつかないものとなる。

 関氏の論理展開は読者の推理をやや置き去りにしたままで、先へ先へと推し

進められるようなところがある。傍証として挙げる内容も関連性の薄いものが

多く、一言でいうと良く分からないものである。

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2010年2月18日 (木)

保土ヶ谷にも古墳があった

瀬戸ヶ谷町の台地上に、かって存在した古墳はかなり大きな前方後円墳でその規模は横浜でも屈指のものである。この古墳の存在は近在の人々の間では知られていたというが、発見されたのは昭和18年という。

場所は保土ヶ谷橋のほど近く、現在の瀬戸ヶ谷町第二公園の西側で保土ヶ谷本陣の南側の台地である。地主の軽部三郎氏が耕作中に埴輪を発見したとされる。同名の保土ヶ谷本陣家は近辺に広大な土地を所有していたことから、本陣家の土地であった事が想定される。

昭和24年頃宅地開発の計画が提示され、初めて正式の調査をした模様。後円部は西に向いており、全長は約41mと近隣には類を見ない大きさである。その築造時期は6世紀と見られている。

これまでに墳丘から人物埴輪のほかに動物埴輪や家形、盾、刀、ゆき)などが出土している。現在は丘陵地の住宅街に姿を変えていて、その昔この場所に古代の古墳があったとは思いも及ばない。

釜台町の保土ヶ谷中学にも古墳があった。ここには円墳が6基確認されている。

昭和32年に調査された後に破壊され学校の敷地となった。築造年代は古墳時代後期のものとされており、瀬戸ヶ谷古墳とは形状も全く違うものの築造年代はそう離れてはいないと思われる。

保土ヶ谷中学の北側に隣接する上星川遺跡では、三世紀ころの竪穴住居跡・16軒が発見されている。ここは現在釜台公園として整備されている。

仏向町は広いエリアにまたがっているが、橘中学の西側にも古墳が一基あった。この古墳は仏向神塚古墳と呼ばれている。釜台町の古墳と同じ円墳であり、築造年代は古墳時代初期のものと推定されているが、或いは中期にまで降るのではないかとも思われる。

同古墳は昭和52年に調査され、円墳の直径は23mで高さは2m。古墳の周囲には幅1.4m深さ0.4~0.8mの溝(濠)が掘られていた。調査により首飾り用と思われる玉類・鉄板片・土師器などが出土している。

尚、仏向団地では縄文時代から古墳時代にかけての集落跡や方形周溝墓が確認されていて、この地域に古くから長期間にわたって人が住んでいたことが判明している。

この他、区外にはなるが横浜駅西口にほど近い、軽井沢にも古墳があった。現在の関東自動車学校の敷地・南側周辺がそれである。全長約27mの前方後円墳で、築造年代は七世紀とされている。

以上見て来たように、保土ヶ谷の古墳はいずれも台地上に形成・築造されていた。

帷子川や今井川の水を飲用や水運・漁に利用していた事が窺われる。

いずれも、現在では学校などに姿を変えていてその面影は残されていない。

(゚ー゚)

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2010年1月24日 (日)

孔明と卑弥呼をスーパー速読?して...。

 「孔明と卑弥呼」を数年ぶりに読み返してみた。

もっとも、全部読む時間はないし、もったいないし?

何か得るものはないかな、程度の関心度ゆえ斜め読みすることに...。

 かって読んだ「スーパー速読術」によると、速読の極意はなんて事もない斜め読みが中心だったよう。

 この斜め読みだと速く読めるけど、中身・ストーリー等は頭に入ってこない。

大まかな内容を把握する程度で...(アタクシめの場合。)達人は違うようでス。

 そこで今回の読み方は、1頁の真ん中あたりを3行程づつ読んで行くことにした。

その結果2日間・3時間弱で読破。大体のストーリーも頭に入ってきた。

 魏志倭人伝や史書に基づきながら、雄大なストーリーが次々に展開していく様子が

分かった。

 中国人と倭人のハーフを大活躍させるプロットは、他にも見られるが

難升米などの歴史上の人物を活き活きと描き、ノンフィクションのようにも

見えるほどの筆致。

スペクタクルの作品が完成されているようだ。映画にすればオモシロイですゾナ。

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2009年12月21日 (月)

いよいよ、西谷駅から相鉄線がJR線に繋がる。

 相鉄線を利用して都内へ行くには横浜駅を経由して行く。

これからは、西谷駅から線路が左に別れてJR羽沢駅に入り、そこから京浜東北線や横須賀線に繋がって行く。

  今のJR羽沢駅は広い構内を持っている貨物線専用の駅。この駅の地下に相鉄線のホームが新設される予定。

 事業は6年後に終結し、平成27年4月には開業予定。更に数年後には新横浜駅を経由して新綱島駅、日吉駅へと東横線とも直通になる予定。

 相鉄線から渋谷や新宿にも直通電車が走ると言われている。二俣川あたりの人には非常に便利となる。

 しかし西谷駅近辺の人たちは、本当に西谷駅に電車が停るのか心配している。

 素通りされるだけなら何のメリットもなく?数軒の立ち退きも求められており、騒音などに困ってしまうだけ。

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2009年12月13日 (日)

「秀真伝」(ホツマツタエ)の信憑性は...?

 「秀真伝」(ホツマツタエ)を読み返してみた。

 数ある古史・古伝の中でも三大古史に入るとか、三大奇書とか言われている秀真伝。

 偽書説も強く学者は無視して論及する識者は少ない。

しかしその内容は論理的で一貫性があり丁寧な文章で綴られている。神々の系譜も細大漏らさず記載されていて、特に矛盾のないものである。

 心情的にはこれが本来の正史であったと思いたい所がある。

 だがその由緒・でどころは今一つ謎を秘めているようだ。

 その文章構成は五音で始まる場合と、七音で始まる場合があるが全文が五七調で記載されている。

 原文は神代文字という。この神代文字には数字まであるが、その濁音文字に右肩に点を二つ付けている事が疑問となる。

 現代のカタカナと表記が似ているのである。その神代文字はハングル文字に似ている。

音は四十八音としているが、数え方によっては現代の五十音と同じになる。

上代の音は母音が甲乙の二種類あったとされている。

 秀真伝の成立は崇神朝で、原著者はオオタタネコという。あまりにも古すぎるようだ。同時代の古文献はただの一書も今に伝わっていない。

 文字が日本に入って来たのは応神朝と云われている。

ただ是より先に、景初三年銘の鏡などが伝わっていることから、更に遡るとは思われる。

 また五七調の構文にも後世的な匂いが漂っているのは否めないか。

 

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2009年11月29日 (日)

古代には食事の量とセックスの回数が法律で決められていた..?

 一般に「宮下文書」と言われているのが「神皇紀」である。

一部では「富士文書」と言われることもある。

 同書によると神武天皇の御世に、民衆の寿命を調べ、次いで食事の量やセックスの回数を調査したという。

 この結果寿命は短く、「曰く規律なし」とされ、大病の原因は食事と房事にあると結論付けられた。

 ここにおいて食事の量とセックスの回数が年齢ごとに細かく規制されることになった。

              神皇紀      上記    竹内文書

  20歳まで(10歳)  禁止

  15歳まで      1日おき     1日おき   1日おき 

  25歳まで      2日おき      2日おき   2日おき

  35歳まで      4日おき     3日おき   3日おき     

  45歳まで      6日おき     5日おき   5日おき

  55歳まで      9日おき     6日おき   6日おき

  55歳以上      随時

 古文献では二倍年齢をとっているとみられることから、上表では半分の年齢にしてある。

 上記の三文献はいずれも偽書説が定説化しているようで、これを論じる識者は少ない。

 神皇紀にあっては、徐福がまとめた物が基本になっているとしたことが、マイナス要因の多くを占めていると思われる。

 近世に徐福村が発見されて徐福の実在性は確認されたのであるが、日本に渡来したかどうかはまた別の話である。

 だが神皇紀の古代の記述は、他の文献に見られない記事も多く記・紀と違ってその論旨には矛盾がない。

  回数は少なく設定したとみられるが、何人もの皇妃を娶っていた神武さんは別格であったのだろう。eye happy01

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2009年10月24日 (土)

江戸氏と太田道灌・上杉氏。

 江戸は家康が入府して湿地帯を開発したとされている。だがその前から江戸は物流の集積港として発達していた。

 その江戸には「江戸氏」が君臨していたことは、あまり知られていない。江戸重長は秩父氏の出であり、平家に属していた。

 江戸重長は三浦氏の衣笠城を攻めて陥落させた後に頼朝に随った。江戸重長の子孫は長く繁栄した。世田谷区の寺には重長の銅像が建っている。

 約百年余の後に江戸は鎌倉円覚寺の領地となった。鎌倉上杉四家の扇谷上杉家の家宰だった、太田道灌が江戸城を築城したのは更に百余年の後である。

 この時に重長の子孫は戦上手の道灌に駆逐された。道灌は上杉同士の争いやその他の合戦を、三十回ほど戦っているが殆どの戦に勝利を収めている。

 その道灌は上杉の用人であった為に、自前の家来は持てずに私費で雇った足軽が軍隊の主力を形成していた。

 道灌は台頭し過ぎたためか、主の上杉定正によって暗殺される憂き目に遭ってしまう。斬ったのは蘇我兵庫と云われる。

 扇谷上杉家は没落し、約百年後さしもの道灌・江戸城は北条早雲に占領された。関東管領上杉憲政もまた鎌倉を追われ、上野平井へと退いた。

 上杉といえば謙信と言われるが、鎌倉上杉からみると謙信はあくまでも、何処まで行っても長尾景虎である。

 

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2009年10月15日 (木)

江戸時代の離婚は少なくなかった。

 江戸時代の離婚届けは「三行半」。妻はこの白紙に三行半で書いた証明書・書状を貰えば再婚も出来た。

 結婚の維持・持続期間は信濃の農村の例で、19年~28年間。

死別などを除き、離縁により結婚が終了したのは、およそ14%という。

 湯舟沢村の伝七家の世帯は20年間、12人~16人の大所帯だった。

 弟の八郎は36歳の時に結婚した。妻は21歳で共に初婚であり、七人の子をもうけ40年余を共に過ごした。

  対照的に同村の伝次郎は結婚運に恵まれなかった。伝次郎は21歳の時に15歳の妻を貰ったが、翌年には離縁し妻はこの翌年再婚した。

 二年後に19歳の妻を得たが間もなく離縁した。どちらの場合も子供は生まれていない。

 伝次郎は7年後に18歳の初婚の妻を得て、男子をもうけたが6年後にはこの結婚も破綻してしまう。 

 子供を残して帰った妻は翌年には再婚している。伝次郎は26歳の妻と4回目の結婚をしたが、この翌年にはまた離婚となり妻は実家へ帰った。

 41歳となった伝次郎は5回目の結婚で26歳の妻を得た。この結婚は6年間続き男子をもうけたがまた離婚で終わりを告げた。

 6回目の結婚は49歳の時で、相手は34歳、女子をもうけて15年後に伝次郎はこの世を去った。 (日本二千年の人口史)

 庶民・民衆の歴史が日本の歴史を形作ってゆく...。bleah

        Kibanakosumos

 

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2009年10月11日 (日)

横浜村の戸数は87戸...日本で初めての水道..

かっての横浜は小漁村で殆どが山であったトカ...?明治の頃はナント僅かに87戸です。

今は300万を超えて日本第二の大人口...なのに信じられますか?明治の日本人口は

約3,500万人ですから、今のおよそ3分の1です。

 8,000万人位になれば、渋滞もラッシュもなくなって暮らしやすくなるかも知れません。

 さて、この寒村に近代水道を敷設したのは明治20年。日本で最初の水道です。

水源は津久井町(旧三井村)、今の津久井湖がある所です。ここから横浜の野毛山に向かって、真っ直ぐの道路を造り資材を運んだ。

 当時は車がなかった為に、まず線路を敷いてトロッコを走らせた。この道に沿って導水管が埋設され、その道には今も「水道道」の名前が残っている。

 英国人技師の協力を得て、この2年に及んだ水道工事は完成した。この水道道は武蔵国と相模国の境界付近に位置していた。

 古地図にはまだ都筑郡と橘樹郡の名が残っている。

 いま西谷に広い浄水場があり、敷地の中央には水道記念館がある。

      Photo

 

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«世界の不思議..チンギスハン(チンギスハーン)の墓が見つかった。